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第059回

2011.09.23

毛利家110923このよろい、写真だとそれほどにも見えませんが、胴回りがたいへん太いよろいです。このよろいは、長州藩の初代藩主毛利秀就所用とされ、よろいを構成する鉄や革の上に黒い漆を塗り固めた「小札(こざね)」や、金具の形状からも、秀就時代にまちがいないとされますが、同時代の他のよろいとくらべても、一回り大きいのです。

 

よろいの下には、通常、直垂(ひたたれ)や鎖帷子(くさりかたびら)などを着用します。また、引き合わせの紐で細かい部分は調整しますから、よろいの胴回りが、必ずしも所用者の胴のサイズと一致するとは限りません。しかし、どう考えてもこの胴回り、秀就はそうとうかっぷくのよい武将だったようです。現在残されている秀就の肖像画を見ても、あごの辺りが、たいそうふっくらとしています。また、現在毛利博物館に残された記録によると、秀就は幼少のころ肥満が問題になったようですから、秀就はそうとうふくよかだったようです。

 

七福神や仏像をみると、いずれもふくよかに描かれていますから、現代とは異なり、ふくよかなことは、決して悪いことではなく、むしろ、高貴・富貴の象徴とすらされていたようです。しかし、秀就の場合は、以前紹介したように、過度の飲酒や不規則・不摂生な生活習慣がもたらした肥満のようで、父の輝元や家臣たちにとっては、心配この上ないことだったようです。

 

秀就にしてみれば、幼くして家族と離れ、故郷を遠く離れた江戸で、毛利氏を代表して、徳川氏や他大名との交渉に臨むことは気苦労の連続だったことでしょう。飲酒や遊芸は、彼の心の平安を保つために必要だったのかも知れません。

 

ただ、秀就が何を考え、いかに毛利家の当主として振る舞おうとしていたのか、輝元や家臣たちの忠告をどのような気持ちで聞いていたのか、真実のところは、今となってはこのよろいから想像してみるよりほかに手だてがないのが残念です。