山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第057回

2011.09.09

毛利家110909一般に、毛利輝元といえば、祖父の元就が一代で築いた大領国を、関ヶ原の敗戦で一挙に失った「不出来な孫」というイメージが強いようです。しかしその一方で、敗戦の衝撃を乗り越えて、長州藩の実質上の初代藩主として、その後二百六十年の礎を築いたこともまた事実です。

 

幾多の困難を乗り越えた輝元が、最も腐心したのは、嫡男秀就の養育だったようです。四十を過ぎてようやく授かったこの嫡男を、輝元はたいそう可愛がったようで、わずか五歳で豊臣秀頼に拝謁させるとともに、当時五歳になると行われていた袴着の儀式では、当時最有力の実力者と見なされていた徳川家康に袴親を依頼しています。

 

また関ヶ原合戦後、秀就は、伏見を離れられない輝元に替わり、徳川氏への奉公のため、わずか六歳で江戸に詰めることとなります。当時の江戸には、秀就と同じような年代、立場の若者が多く集まったのでしょう、また戦国の遺風とされる華美な、いわゆる「かぶき」と呼ばれる流行にも染まったらしく、秀就は諸事派手好みで、謡や酒宴などが過ぎることもよくあったようです。同じ城に住み、飲酒や立ち居振る舞いなど、日常生活にいたるまで細かく祖父の元就から指導を受けた輝元とは違い、遠く離れた江戸で暮らす秀就には、輝元も十分な指導・監督ができなかったようです。

 

秀就室の実家越前松平家における家政の混乱や、将軍秀忠への奉公をないがしろにしたため、秀忠の弟忠輝や、関ヶ原の功労者福島正則までもが改易される事態に、危機感を抱いた輝元は、秀就に向けて、二十一箇条にも及ぶ長い忠告の手紙をしたためました。この手紙を受け取った秀就は、一枚一枚の継目裏に花押を据え、確かに了解した旨の請書を記して輝元に返しています。この忠告が、どこまで秀就の心を動かしたかは、明らかにできませんが、この後秀就は、長州藩維持のために奮闘します。少なくとも輝元の想いは秀就に通じていたのでしょう。