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第056回

2011.09.02

毛利家110902毛利元就といえば、これ! というくらい有名な、いわゆる「三子教訓状」ですが、これは教訓といったのどかな類のものではありません。

 

冒頭、長男隆元、次男元春、三男隆景に向けて、「毛利」という名字を何よりも大切にせよと訴えています。それは、並みいる戦国大名や、必ずしも毛利氏に従順でない家臣を抑え毛利家を存続させるには、この三兄弟と、宍戸家に嫁いだ次女を加えた四名が一致結束することが何より大切だと訴えているのです。また元就は、この四人の結束が崩れたならば、毛利氏はもちろん、各家を継いだそれぞれ兄弟もまた必ず滅亡するぞと厳しくたしなめています。

 

この書状は、元就が長年の経験をふまえ、乱世を毛利氏が生き残るための知恵として三人の子息に授けた、秘策中の秘策だったのです。

 

しかし当時元就は、実は既に隠居の身でした。元就は、長男隆元が山口から戻ると、家督と、その証となる系図や什書を隆元に譲り渡し、自らは隠居である「大殿様」になりました。天文年間後半(一五四〇~五〇年代)は、いわゆる元就の活躍により毛利氏が急成長した時代として知られていますが、実際の当主は隆元だったのです。三子教訓状が書かれた弘治三年(一五五七)当時、元春は吉川家の、隆景は小早川家のそれぞれ当主でしたから、三人は皆それぞれ独立した家を抱え、必ずしも「毛利」の家を第一に考えるわけにはいかなかったのです。大内氏を倒し、急成長を遂げた毛利氏でしたが、内実はかくも危ういものでした。

 

そこで元就は、苦境に立った隆元を救い、二人の弟にしっかりと隆元を支えさせるため、この手紙を、渾身の力をふりしぼって記したのです。混迷の戦国乱世、家を確実に存続させるためには、生あるうちは安閑と過ごすことなく、余生のすべてをも家のために費やす。それが戦国に生きる隠居の定めでした。