山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第055回

2011.08.26

毛利家110826戦国の智将毛利元就が、ことあるごとに飲酒をたしなめていたことはよく知られています。この写真は、ある日、孫の輝元が飲酒するようになったことを聞いた元就が、輝元の母に対して、飲酒はよくないこと、少量ならかまわないが、度を超して深酔いするほど飲ませてはいけないと注意し、節酒の効能として、深酒が過ぎた元就の祖父豊元・父弘元・兄興元がいずれも若くして亡くなったのに対して、下戸の元就はこのように還暦を超える長寿を保っていることを述べた元就自筆の書状です。

 

この書状は、元就の健康観や、筆まめさ、微細なことまでこだわる元就の性癖をよく示す根拠としてしばしば取り上げられます。確かにそのとおりで、これらをフルに活かした元就が、大内氏や尼子氏を打倒し、西国の覇者としてその名をとどろかせたことは周知のことでしょう。

 

ところで、元就という人、単なる健康オタクの口やかましいおじいさんだったのでしょうか。輝元は、元就の跡を継ぎ毛利家の当主となった隆元の嫡男として、天文二十二年(一五五三)に生まれました。翌年元就・隆元父子は、西の大国大内氏と決別し、弘治三年(一五五七)には大内氏を滅ぼし、完全な自立を遂げます。輝元が物心ついた頃、すでに毛利氏は西国一の大名にのし上がっていました。そして輝元は、その後継者として養育されることとなったのです。

 

たかが飲酒といいますが、大大名の当主が健康管理をおろそかにし、病気がちになるとか、早世することは、領国の浮沈に関わる重大事でした。また戦国争乱のこの時代、血統だけで大名の地位を保持できるほど、甘い世の中ではありませんでした。当主としての経験と実績を積み重ね、家臣・領民の信頼を得なくては、下剋上の憂き目に遭うこともしばしばありました。家を存続させるためには、家長たる当主が、若年時には前当主の補佐を受けるとともに、自ら経験を積むだけでなく、後継者の成長と自立を見届けるまで長命を保つ必要があったのです。