山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第054回

2011.08.19

毛利家110819江戸時代、各大名は江戸にも幕府から拝領した屋敷をもち、参勤交代のため江戸で過ごす一年はそこで生活していました。長州藩の場合、関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元に代わり、徳川氏への忠誠の証として、嫡男秀就が江戸に赴くと、江戸城桜田門の外に屋敷を与えられました。

 

この屋敷は、江戸における長州藩の公館であり、江戸滞在中の藩主の生活のみならず、幕府との各種折衝、幕府や各大名家の情報収集・交換の場とされていました。そのため幕藩体制の安定とともに重要度が増すと、居住する藩士も増え、手狭になったようです。

 

そこで長州藩が、寛永十三年(一六三六)に幕府に願い出、新たに拝領したのが、現在の六本木、東京ミッドタウンに相当する「麻布屋敷」でした。この屋敷は、二万坪にも及ぶ広大なものでしたが、長州藩では将来の拡張をみこして高配部の谷間地に敷地を広げ、最終的には三万六千坪ほどになったようです。この谷間地には、豊富なわき水があったらしく、その水を利用して広大な庭園を造りました。写真は、このときに作られた庭園から眺めた江戸の眺望を、江戸後期に谷文晁(ぶんちょう)の子息文二が描いたものです。

 

広々とした庭園には、たいそう立派な檜の林があり、その優れた眺望は、江戸の貴顕にもよく知られていたようです。一八世紀の後半、藩主毛利重就自身の案内で邸内を見学した旗本の磯野政武は、小島も浮かぶ広々とした庭園を目の当たりにした感動を、巻物に記しています。

 

磯野政武は、将軍徳川吉宗の小姓を勤めた有力幕臣の一人でした。重就のころにもかなりの影響力を持っていたらしく、そのため重就自らが接待に努めたのでしょう。江戸時代の藩邸は、こうした藩と幕府、藩と藩との外交の場でもありました。江戸に屋敷を構える各藩が、それぞれの屋敷に必ず造った立派な庭園は、こうした有力者を迎えるためになくてはならないものであり、そこでの接待もまた「お殿さま」の重要な職務の一つだったのです。