山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第053回

2011.08.12

毛利家110812嘉永三年(一八五〇)六月、萩城下町を未曾有の大洪水が襲いました。この水害では、萩城内の指月山でも山崩れが発生し、城内にあった毛利元就の菩提所洞春寺(とうしゅんじ)の本堂にも土砂が流れ込んだといいます。

 

洞春寺といえば、萩城の最奥、最も堅牢に作られた部分ですから、この時の藩首脳部、とりわけ藩主毛利敬親(たかちか)の失意は甚だしく、洪水の直後、「今回の洪水は自らの治世の行き届かないことを、祖先元就公がお怒りになり、このような事態となった」と反省するとともに、藩士に対し、「洪水への対処法があれば遠慮無く申し出よ」と自ら命じています。

 

萩城下町は、阿武川河口、橋本川と松本川に囲まれた三角州に形成された城下町でしたから、洪水は宿命のようなものでした。しかし、城内にまで被害が出たことは、よほどの衝撃であったのか、敬親以下の藩首脳陣は、抜本的な解決策を模索したようです。その結果作られたのが、この絵図に描かれた姥倉(うばくら)運河なのです。この運河は松本川の河口に近い鶴江から、日本海に面した小畑にむけて地面を開削し、松本川の放水路にしようとしたものです。

 

『萩市史』によると、嘉永五年(一八五二)十一月から約二年半の歳月を費やし、安政二年(一八五五)六月に運河は完成しました。これにより、洪水の危険が軽減されるとともに、平時にはこの絵のような船が行き交う運河として、城下経済の活性化にも寄与したようです。

 

この工事には、当初藩主敬親の手元金二千両が用いられました。敬親自身述べたように、科学技術の未熟なこの時代、天災すら藩政の良否を判断する材料とされました。したがって、今回のような自然災害から国土と領民を守ること、それは国を統べる「お殿さま」にとって、その存在価値を問う試金石のようなものでした。手元金を拠出し、運河を完成させた敬親は、まさにこの難事業が「お殿さま」としての正念場であることをよく自覚していたのでしょう。