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第051回

2011.07.29

毛利家110729これは、熨斗目(のしめ)という小袖の一種で、主に上級武家男性の正装時に、裃(かみしも)や大紋(だいもん)などの下に着る内着とされる着物です。腰の部分だけ文様を替える、腰替わりという意匠が特徴とされますが、この熨斗目は縮緬地に、やはり花色とよばれる明るい青の上下、腰の部分だけが格子文様になっています。

 

この熨斗目が納められている箱の書付によると、享保九年(一七二四)に、萩藩の五代藩主毛利吉元が一年の江戸詰を終え、帰国するにあたり、八代将軍徳川吉宗から下賜されたものだとのことです。たしかにこの熨斗目には、徳川将軍家の家紋「三ツ葉葵」が描かれています。

 

戦争が途絶えた江戸時代、江戸と領国を一年おきに往復する参勤交代は、諸大名の将軍に対する重要な奉公の一つと考えられていました。そのため諸大名は、莫大な労力と経費を費やしながらも、参勤交代を続けていたのです。また将軍の方でも、諸大名の忠節に応えるため、一年の在府を終え、帰国の途につくこととなった大名が、暇乞いの挨拶に参上すると、毛利氏のような有力大名の場合に限られてはいましたが、直接対面所に足を運び、ねぎらいの言葉をかけるとともに、衣服などの餞別を渡していました。

 

先ほどの箱書によると、帰国時の時服下賜が、この享保九年以降、反物の下賜に切り替えられることになったため、帰国の土産として一門の女性たちに配った残りの服を、最後の服として特に厳重に保管することにしたようです。この時服下賜は、当時財政難の幕府にとっては、かなりの負担だったようで、吉宗は幕政改革の一環として、これを簡略化したのです。

 

時服の下賜は、将軍の恵みを大名に示すための行為ですから、それを省略すれば、幕府の威信が低下することは否めません。それでも吉宗は、なりふり構わず幕府財政の立て直しを計ったのであり、この服こそは、享保改革にかける吉宗の意気込みを今に伝えているのです。