山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第050回

2011.07.22

毛利家110722これは、関ヶ原合戦の後、慶長五年(一六〇〇)十月に、徳川家康が毛利輝元・秀就父子に対して、防長二か国の領有と、身命安堵を約束した起請文(きしょうもん)です。

 

起請文とは、神仏への誓約を付した契約書で、なかでもこれのように「牛玉宝印(ごおうほういん)」という護符の裏に誓約文を記したものは、当時最上級の誓約とされていました。

 

この起請文によって家康は、毛利氏に対して最大級の配慮を示し、敗軍の将である毛利氏を安心させ、徳川・毛利両家が完全に和睦したことを証明したのです。

 

関ヶ原合戦において毛利氏が、領国保全を条件に、決戦当日中立を保ち、輝元自身も抵抗せず大坂城から退去したこと、それにもかかわらず、家康が毛利氏の領国を没収しようとしたが、関ヶ原の功績に免じて二か国領有のみ容認したことはよく知られています。この起請文の文面をよく見ると、確かに、防長両国を「安堵する」のではなく、「与える」と書かれています。つまり、文面上は一度没収した領国のうち、防長両国のみ改めて家康が与えているのです。

 

この起請文は、単なる和睦の証明書ではありません。この起請文により、毛利氏の領地は、実力で毛利氏が切り取ったものでも、豊臣氏から与えられたものでもなくなり、家康から与えられたものとされたのです。起請文で領地を与えるというのは、どちらかといえば大名同士が同盟を結ぶ時の進め方の一種ですが、この時期の家康は、いまだ豊臣政権の一大老にすぎませんでした。したがって、豊臣氏の存在を敢えて無視する形で、このような同盟(和睦)とも、服属とも、どちらにでも解釈可能な、曖昧な書類で毛利氏に所領を与えたのでしょう。事実、毛利家以外には、家康はこのように所領を与える書類を発行していないと考えられています。 この起請文は、毛利氏にとって屈辱的なものでしたが、江戸時代には、神君家康自身が発行した唯一無二の一札として、毛利氏の防長支配をしっかりと保障することになったのです。