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第046回

2011.06.23

毛利家110624これは、高麗茶碗と呼ばれる、朝鮮で作られた茶碗です。十六・十七世紀のものとされますが、当時日本より製陶技術が高かった朝鮮産陶器もまた、茶道の世界では重視されていました。筒型に作られたこの茶碗は、中の茶が冷めにくく、冬に用いられるようですが、全体の乳白色の釉薬や、ところどころ茶褐色に変色した色合いは、いかにも温かく、冬の茶席に似合いの茶碗といえます。また口もややゆがんでいますが、このゆがみが却って手に馴染み、不思議です。

 

箱書によると「清水美作」によって献上されたもののようです。もしこれが、制作と同時代の清水美作ならば、あの高松城の水攻めで著名な清水宗治の嫡男景治ということになります。

 

清水景治の父宗治は、羽柴秀吉による再々の誘いを断り、秀吉の大軍を前に水攻めを耐え抜き、最後は城兵の命と引き替えに切腹した稀代の名将としてよく知られています。

 

しかし、こうした宗治像を裏付ける同時代資料は驚くほど少ないのです。最も確かなものは、約半世紀後、宗治の嫡男景治自身が長州藩に提出した一通の書類です。これは現在毛利博物館に残されていますが、それによると、ほぼみなさんご存じの宗治像がそのまま記されています。

 

しかしこの書類、実は景治が引退するにあたり、子息の行く末を願って藩に提出したものなのです。秀吉によって故郷備中を逐われた清水氏は、小早川隆景を頼り、備後・九州を転々とします。その後隆景の跡を継いだ小早川秀秋に仕えますが、やがてその下を離れ、毛利氏に帰参します。景治自身は優秀だったのでしょう、長州藩内でもかなり出世しますが、やはり戻り新参の身ゆえか、息子の行く末は心配だったようです。父宗治以来の功績を書き上げて提出し、藩に息子の将来を託しました。

 

こうした書類に描かれた宗治像が、果たして歴史的に正確に描かれているのか。決して事実無根とは思えませんが、同時代資料から丹念に確認していく必要があるように思われます。