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第045回

2011.06.17

毛利家110617 この写真は、千利休が毛利輝元に贈った茶杓「一松」の納箱の蓋です。利休といえば、侘び茶の大成者として、教科書でもおなじみの茶人ですが、彼ほど著名人に関わる茶道具となると、箱の表裏に由来や由緒などを書くことがあります。これを箱書といい、ここから多くの情報が得られるのですが、時代が下るにしたがい、箱書そのものも価値を持つようになると、箱を保護するため、さらに外箱を新調するのです。現在「一松」は、毛利家伝来の茶杓のうちでも、最も貴重な品として、茶杓を納める筒のほか、三重の納箱によって、厳重に守られています。

 

こうした厳重さにもみなさん驚かれることと思いますが、もっとびっくりすることは、その箱書の内容です。写真は、二重目の納箱の蓋なのですが、これによると、この千利休から毛利輝元に進上された茶杓は、延享二年(一七四五)の秋、支族の徳山藩主毛利広豊が所望したことから、時の萩藩主毛利宗広が広豊に与えたというのです。

 

現在なら、もちろん利休の茶杓を他人に渡すなんて考えられません。しかし、萩藩においては、利休が豊臣秀吉の命によって切腹させられたこともあり、輝元以後は長らく千家流の茶道を用いていなかったようです。そのためか、利休の茶杓といえど、「家の宝」とまでは認識されていなかったのでしょう。具体的な事情はわかりませんが、徳山毛利家との関係を重視する萩藩主毛利宗広の判断で、この茶杓は毛利広豊に与えられたものと思われます。

 

毛利家が再び千家流茶道に回帰するのは、宗広の跡を継いだ藩主毛利重就の時代です。重就が、江戸千家の祖である川上不白に熱心に師事したことはよく知られています。この「一松」もまた、千家流の茶道への回帰とともに、いつの間にか毛利宗家に戻されたものと思われます。茶杓の名品なるが故に人の手を転々としたのですが、何時、どういう理由で移動したのか、歴史的な背景まで掘り下げることにより、由緒以上の歴史的事実が解るのかもしれません。