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第044回

2011.06.10

毛利家110610写真は、前回紹介した天目茶碗に茶をたてて貴人に渡すとき、茶碗を載せる「天目台」です。一見すると、口縁や羽縁・地付の縁にそれぞれ真鍮の覆輪(ふくりん)が付けられてはいますが、やや飴色がかった黒漆で全体を覆っただけの、何の変哲もない天目台に見えます。

 

ところがこれは、古来より知る人ぞ知る、天目台の名物の一つなのです。江戸時代前期に記された『玩貨名物記』に、毛利輝元・秀就父子の所持品と記されています。その決め手は、写真では見えませんが、高台の内側に、朱漆で「梅鉢」と漢数字の「一」が描かれていることです。この天目台は、堺の豪商天王寺屋が中国で特別にあつらえさせたところ、それを運んだ船が尼崎に漂着したという伝承から「尼ヶ崎台」と呼ばれています。

 

影山純夫氏によると、天王寺屋は、堺商人のうちでも毛利家との関わりが特に深い豪商だと推測されています。実態はまだ明確ではありませんが、こうしたゆかりの茶道具があることや、毛利輝元が天王寺屋出身の人物に扶持を与えていることなど、その可能性は高いようです。

 

戦国武将と商人といえば、豊臣秀吉と千利休・小西行長らの関係が著名です。しかしそれは、特別なことでなく、戦国武将にとって、うち続く戦乱を勝ち抜くため、商人らを頼り、軍事物資や兵糧米・軍資金を調達・輸送するのは当たり前のことでした。しかしこうした借金や融資は、戦争に打ち勝ち、敵方の所領や利権を没収しないことには、とうてい返済不可能な規模のものでした。したがって戦国大名は、戦争に勝ち続けなくてはならなかったのです。

 

巨大な領国を保持した毛利氏の軍事費は、途方もない額だったと思われます。よって領国内外の諸商人の力を頼ったことは間違いありません。関連史料は少なく、全貌の解明は困難ですが、毛利氏と商人らとの関係を解き明かすことは、いまだにドラマや小説などで、荒唐無稽な説明が横行している戦国大名の軍事行動を、正しく理解するためにも必要なことなのです。