山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第039回

2011.05.06

毛利家110506写真は、一般にはあまりなじみがないかも知れませんが、刀筒(かたなづつ)といい、刀剣収納具です。前方が膨らんでいるのは、鐔(つば)など刀装具を装着したまま収納するためと思われます。また蓋と身の境目には鍵が付けられ、盗難にも配慮されていたようです。

 

使用例が案外見あたらず、用法は必ずしも詳らかではありません。ただ、総体を梨地蒔絵とし、古様な沢瀉(おもだか)紋が金銀蒔絵で散らし描かれていますので、参勤交代など、毛利家の人々が移動する際、召し換えの刀剣を持ち運ぶために使われたのだろうと思われます。

 

江戸時代、全国の諸大名が、一年おきに江戸と領国を往復する参勤交代が制度化されていたことはご存じのことと思います。この参勤交代、私たちが現在祭りや町おこしのイベントで見るような、華やいだ楽しいものでは決してありませんでした。江戸への到着期日が厳しく定められていたことや、長旅を行う殿様の健康管理、また川止めなど当時の交通事情からよく日程が狂うこと、一日日程が狂うと、宿泊費や臨時雇用者の賃金など出費が膨れ、財政を圧迫するなど、当時の関係者にとっては、毎回毎回、まさに命がけの大事業だったようです。

 

ただし、天明三年(一七八三)春に行われた毛利重就(しげたか)帰国の旅は、少し様子が違ったようです。その前年、隠居が認められた重就は、二度と領外へ出るつもりが無かったのでしょうか、「真のお忍び」と称して、色々と寄り道しながら母国長州へ戻ったようです。

 

たとえば伏見では、数日宿に滞在と称して密かに入京し、有栖川宮家に嫁いだ孫姫との会食を楽しんでいます。また安芸国廿日市では、三田尻から密かに呼んだ船に乗って厳島神社に参拝したようです。これは最後の参勤ということで、例外とは思われますが、重就という人はとにかく精力的な殿様だったようです。彼はその行動力をフルに活かして晩年まで藩政革新に力を尽くします。彼の行動力が、後の長州藩にどう影響したか興味が尽きることはありません。