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第038回

2011.04.29

毛利家110429写真は、備前国の刀匠長船国光(おさふねくにみつ)によって作られた打刀です。

 

国光作の刀剣は現存するものが少ないそうですが、長船派の刀匠が代々用いていた「光」の字を名乗りに加えていることや、作風やできばえなど、末備前の業物の一つと考えられます。また、保存状態は大変良く、後世研ぎ直した様子はみられず、いわゆるうぶの状態です。この刀の見所は、何といっても倶利伽羅竜(くりからりゅう)の彫物でしょう。宝剣に竜が巻き付いたそれは、不動明王が右手に持つ剣とされ、修行の妨げとなる煩悩を打ち砕くとされていました。さらに面白いのは、その背面に文字で「佐々木大明神」と彫り込まれていることです。

 

毛利家の伝承では、この刀は、出雲尼子氏の重臣山中鹿介(しかのすけ)の佩刀とされているのです。確かに制作年代は鹿介の活躍時期とそう離れてはいません。また佐々木大明神は、近江源氏の氏神として、近江国出身の尼子一族によって厚く崇敬されていました。またこの刀が作られた天文八年(一五三九)ごろ尼子氏は、備前両国に出兵を繰り返していたようですから、特に伝承と矛盾するところもないので、この刀は山中鹿介のもので間違いないようです。

 

周知のとおり、山中鹿介は、尼子氏の再興をめざして、最後まで毛利氏に抵抗を続けた武将です。天正六年(一五七八)毛利氏は、三万の大軍で鹿介の籠もる播磨国上月城を攻略しました。このとき鹿介は降伏しましたが、毛利氏の本拠安芸国への護送途上、備中松山城近くの阿井の渡しにおいて、吉川元春により処刑されたといいます。

 

吉川家には、今なお鹿介所用の兜が伝来しているようです。刀といい兜といい、このとき鹿介の遺品を両家で分け、記念として保存したのでしょう。憎い敵であったはずの鹿介ですが、主家の再興のため死力を尽くすその姿は、実際に対戦した毛利輝元や吉川元春にとっても、あっぱれと思わせるところがあったのでしょうか。