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第037回

2011.04.22

毛利家110422写真の甲冑は、毛利家伝来品の内でも、最も洗練された意匠の一つと思われます。幅広の大袖(おおそで)や筋兜(すじかぶと)などは、伝統的な大鎧を意識したいわゆる復古調と呼ばれるものですが、鉄や革で作られた小札(こざね)とよばれる部品をつなぎ合わせる威毛(おどしげ)は、紺と紫二色の色糸を、裾の部分だけ山形に拵えた華麗な意匠となっています。

 

こうした幾何学的な文様が連続する甲冑は、紋柄威(もんがらおどし)と呼ばれるようですが、この山形の文様や、これを縦にした山道文様(あるいは稲妻文様)は、その鋭利な印象が好まれたのか、武家の装束などによく用いられたといいます。

 

この甲冑はその形や様式、鋲に付された家紋から、越前国丸岡藩有馬家より長州藩の七代藩主毛利重就(しげたか)の養子となった重広(しげひろ)の所用品と推測されています。

 

ご存じのとおり重就は、長府藩主から毛利宗家を継承した人物です。このとき重就を養子とするにあたり先代藩主宗広は、遺言で毛利宗家の血脈を継ぐ有馬家の重広を、重就の後嗣とするよう遺言していました。小川國治氏によると、実子を後継に据えようと図る重就と、宗広の遺言に従って、重広を重就後継に擁立しようとする重臣層との間に対立が生じたといいます。

 

この問題は、藩政の完全な掌握を目指す重就と、重就をあくまでも一時的なつなぎの当主にとどめ、藩政の主導権を維持しようとした門閥重臣層との対立が真相と思われますが、重広がわずか二五歳で早世したため、御家騒動など大きな問題にはいたりませんでした。

 

重就が重臣を抑え、検地の増石分を藩主直裁の特別会計化したことはよく知られています。それもこの対立に影響されたのかもしれません。重広の死後、八代藩主となった重就の四男治親(はるちか)は、重就路線の忠実な継承者であったと評価されています。もし重広が長く生きていたら、果たして長州藩がどのように幕末を迎えていたのか興味深いところです。