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第036回

2011.04.15

毛利家110415毛利博物館は、戦国~江戸初期にかけての歴史資料や美術工芸品に関して、全国でもここだけ!という品々を所蔵する博物館として、実は全国的にもよく知られている博物館なのです。

 

今回紹介する「緋羅紗地丸合羽(ひらしゃじまるがっぱ)」も、そうした資料の一つです。

 

これは、長州藩の初代藩主毛利秀就が用いたとされ、南蛮からもたらされた羅紗布を裁断し、円になるよう縫い合わせ、高襟を付けたものです。同じく秀就所用のよろい下着や陣羽織・采配・軍扇などと一緒に保管されていますので、おそらくマントのようによろいの上から羽織ったのでしょう。写真ではよくわかりませんが、かなり大きな物です。また、とても四〇〇年前の物とは思えないほど緋色が鮮やかで、万事派手好みの桃山期の流行をよく伝えています。

 

毛利秀就は、毛利輝元の長子として、関ヶ原合戦の後、わずか六歳で江戸に行くことになりました。これは、毛利家存続のため、全国政治の中心地である京都伏見から動くことができない輝元に替わり、徳川氏への恭順を示すためで、とても重要な役割でした。

 

父親を早く亡くしましたが、祖父の元就から身近で厳しく鍛えられた輝元と異なり、幼少から父と離れて暮らすことになった秀就には、あまり厳しく教育する人がいなかったのでしょうか、青年に成長すると、夜更かしや深酒、派手な行動などが目立つようになり、父の輝元が度々彼に注意しています。これらはいずれも秀就の資質というより、秀就同様人質として建設途上の江戸に集まった、若い大名家の子弟の間に流行した華美で乱暴な流行に冒されただけのようですが、関ヶ原戦後、徳川氏との関係を円滑にし、毛利家の存続を一心に願う輝元にとっては、毛利家の存亡にもかかわる、まさに頭痛の種だったようです。

 

やがて成長を遂げた秀就は、その素行も収まり、藩主として父から引き継いだ長州藩の基盤を固めていきます。このマントは、秀就の成長を、傍らで眺めてきたのかもしれません。