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第035回

2011.04.08

毛利家110408毛利博物館では、「お雛さま」が終わると、次の年中行事「端午」へと企画も変わります。写真は、今回の企画展「端午」で展示中の「朝顔小具足(あさがおのこぐそく)」です。少年用の小さな具足ですが、要所は金箔塗りとし、一面に金箔を貼った小札(こざね)とよばれる部品を白の絹糸で綴った姿は、豪華ですが颯爽とし、いかにも若殿の具足といった感です。

 

兜も今は黒化していますが、総銀箔貼り、烏帽子形(えぼしなり)で、公達の御曹司にふさわしいものです。よく眺めてみないと見えないのですが、この兜鉢の側面に金泥で朝顔が描かれていることから、「朝顔小具足」とよばれているようです。

 

この具足は、所伝によれば、豊臣秀吉の嫡男秀頼から、毛利輝元の嫡男秀就に与えられたものだそうです。秀就は、秀吉死去の翌慶長四年(一五九九)、父の輝元とともに上坂、大坂城で秀頼に拝謁しています。そのときに与えられたとされているのです。

 

この時秀就は、従五位下に叙せられ、侍従に任じられました。従五位下侍従とは、当時中小規模の大名や、大大名の重臣らに与えられた位官ですから、まだ家督を継承していないものの、五大老の嫡男にふさわしい地位を秀就は得たといえます。

 

ただ驚くのは、この時秀就がわずか五歳ということです。これは他には例がなく、しかも翌月には、さらに従四位下に昇進すらしています。これは全く破格の優遇といわざるを得ません。

 

秀吉の死から一年半、若年の当主秀頼の下、五大老・五奉行内における徳川家康と反家康派の対立が激しくなり、豊臣政権の基盤は揺らぎ始めていました。家康に次ぐ実力を持つ毛利氏は、この対立の帰趨を左右する存在として、双方から注視されていました。この具足も、秀頼からの信頼の証として毛利氏に与えられたのでしょう。こうした破格の信頼が、輝元をして西軍の総大将となり、石田三成の決起に協力させる一因となったことはまちがいありません。