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第032回

2011.03.18

毛利家110318毛利博物館の企画展「お雛さま」の見所は、何といってもその豪華な雛道具の数々でしょう。かつての大名家の婚礼道具を正確に模したとされるそれには、大小数百のすべての道具に、統一された文様と大名家の家紋が描かれ、その手間のかかりように驚かされます。

 

先にも紹介しましたが、今回展示中の毛利敬親夫人都美姫(とみひめ)所用の雛道具には、毛利家の家紋「沢瀉(おもだか)」が蒔絵で描かれています。

 

沢瀉とは、かつては水辺でよく見られた可憐な草花の一つで、その葉の形が、鏃(やじり)に似ていることから、武士に好まれ、武家の家紋に用いられたといいます。

 

毛利家の沢瀉紋は、抱き沢瀉を少し変形させた特殊なもので、伝承によれば、毛利元就が沢瀉を見て戦いに臨み、戦勝をおさめたことを記念したものとされます。しかし、元就所用とされ、かつ美術史的な見地から同時代とされる遺品類に、沢瀉は全く描かれていません。どうやらこの伝承は、後世作られたものではないかという気がしています。沢瀉が紋章として使われている最も古い遺品は、初代藩主毛利秀就(ひでなり)のもののようです。また、まだ実際には確認していませんが、秀就の父輝元(てるもと)晩年の遺品に沢瀉が描かれているようなので、おそらく江戸時代の初めごろ、毛利家の家紋に加えられたとみる方が妥当のようです。

 

江戸の街路図にあたる江戸図や、大名・旗本の年鑑のようなものとして作られた武鑑にも、毛利家の家紋としてはこの沢瀉が描かれていますから、江戸時代には毛利家の家紋として広く知れ渡っていたようです。現在残されている紋帳によると、各当主やその子たちは、各自がそれぞれ形を変えた沢瀉紋を使用したようです。したがって、藩の幕や旗に使われた「一に三つ星」紋と違い、沢瀉紋はより藩主の私的部分に近いところで用いられていたのかもしれません。

 

よく知られた家紋ですが、実際の用例や変遷など、案外まだ未解明の部分は多いのです。