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第030回

2011.03.04

毛利家110304毛利博物館の企画展「お雛さま」では、毎年段飾りで飾る雛人形を入れ替えて展示を構成しています。写真の雛人形は、今年展示中の「次郎左衛門雛(じろうざえもんびな)」です。この雛人形は、十八世紀の後半に人形師の雛屋次郎左衛門が考案したとされ、大名や公家などの子女が幕末期まで愛好したといいます。まんまるの顔に、素朴な目鼻立ち、おちょぼ口が愛らしいことから、当館の雛のうちでも最も人気の高い雛人形です。

 

またこの雛は、下段の楽人人形とは顔かたちが全く異なります。それは、本来これが男女一対のみの人形だからなのです。この人形は、男女合わせて「内裏雛」とも呼ばれ、男雛は束帯、女雛はいわゆる十二単、男女とも公家の正装を模した衣裳を身にまとっています。内裏とは皇居のことですから、その衣裳といい、この雛人形は天皇・皇后を意識して作られているのです。

 

そもそも雛人形は、近親・縁者から贈られた子どもの魔除け・お守りがその始まりとされます。その人形を、三月三日の上巳の節にあわせ、飾るようになったのが「ひなまつり」、そこに飾る人形を「雛人形」と呼び、室町期には女子のまつりとして定着すると考えられています。当時、女子の幸せは幸福な結婚と考えられたためか、人形は男女一対の夫婦雛が一般化していきます。そして太平の江戸時代中期以降、今風にいえばセレブ婚への憧れか、源氏物語や、そこに登場する帝(みかど)にイメージを重ねた「内裏雛」が登場したとされます。

 

この流れは、ひなまつりというままごとの世界だけの話ではありません。毛利家でも、七代藩主重就の娘は、後に関白となる鷹司輔平の許に嫁いでいます。以後も毛利家と鷹司家との関わりは深く、幕末期の政局にも大きく影響を与えたと考えられます。

 

十八世紀の後半、毛利家をはじめ有力大名たちは、色々な形で公家との接近を図ります。しかしその始原は、案外こうしたセレブへの純粋な憧れだったのかもしれません。