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第027回

2011.02.11

毛利博物館では現在、恒例の企画展「お雛さま」を開催しています。かわいらしいお雛さまに、毛利家の姫君が使用していた華麗な衣裳など毎年好評です。ぜひ当館へお運びください。

 

毛利家110211 この写真は、「雛道具」といいます。雛道具は、お雛さまのお嫁入り道具のことで、当然そのお雛さまの持ち主にふさわしい道具立てとなります。大名家の場合、大小数百の道具に蒔絵で、実家の家紋、もしくは実家と嫁ぎ先の家紋をともに描いたものがあつらえられました。

 

今回紹介の雛道具は、箱に貼付された札から、幕末の長州藩主毛利敬親の正室都美姫(とみひめ)所用とされています。とすると、この道具おかしなことにお気づきでしょうか。それは、この雛道具の家紋が、全て毛利家の家紋「沢瀉(おもだか)」になっていることです。

 

敬親は、十一代藩主斉元の子として、江戸藩邸で誕生しました。しかし斉元は、従兄弟の十代藩主斉煕(なりひろ)の嫡男斉広(なりとお)が成人するまでの中継ぎとして藩主にすえられた人物であり、斉元の子が次期藩主となることは、この段階では考えられませんでした。ところが、十二代藩主となった斉広が急逝したため、敬親がその後継者に擁立され十三代藩主とされたのです。斉広には女子がいたため、血筋を正統に近づけるためか、その女子が敬親の正室と定められたようです。そう、その女子こそが都美姫でした。ただ形式上は、複雑な理由によって一門の子女として敬親の許に嫁ぎますが、実質的には敬親が入り婿でした。雛道具の家紋に沢瀉が描かれている背景には、こうした事情があると考えられるのです。

 

初めてのお国入りにあたり、敬親が家老たちに与えた書状によると、敬親の御家継承は、自身全く予期しないことだったようです。敬親はかなり律儀な人物だったようで、こののちも時分が養子であることを強く意識し、何よりも毛利家の存続を第一の使命と考えていたようです。こうした敬親の意識が幕末の動乱期、長州藩をどう動かしたか、とても興味深いところです。