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第026回

2011.02.04

毛利家110204毛利博物館では、二月五日(土)より、恒例の企画展「お雛さま」を開催します。庭園にも梅が咲き始め、春を先取りした企画として毎年好評です。ぜひ当館へお運びください。

 

この企画展は、いうまでもなく、三月三日の「桃の節句」にちなんだ企画です。江戸時代の諸藩では、幕府が定めた節句にならい、季節ごとの行事が行われていました。三月三日の「桃の節句」もその一つで、主に女性の健やかな成長や幸せな行く末を願う行事として、雛段を飾り、桃の花を飾り付けるなど、かなり派手に行われていたようです。

 

万延元年(一八六〇)三月三日、時の大老井伊直弼(いいなおすけ)が、早朝江戸城へ向かっていたのも、この「桃の節句」に参加するためでした。ところが、登城の途中、江戸城桜田門の前で、水戸藩浪士らの一団に襲われ、落命した事はみなさんもよくご存じのことでしょう。

 

いわゆる桜田門外の変ですが、この事件は、直弼の開国政策に反対する朝廷の有力公家や水戸藩など、いわゆる攘夷派に対し、直弼が大弾圧を加えたことに対する報復でした。このとき、長州藩の吉田松陰が斬罪に処せられたことは、これまた有名な事実です。

 

これらの事件から、長州藩と井伊家は、仇敵のように思われている節もありますが、実際のところはどうだったのでしょう。この事件を遡ること約百年前、長州藩の七代藩主毛利重就の七女烈姫と、彦根藩主井伊直幸の嫡男豊吉の婚約が成立しています。井伊家は代々徳川譜代筆頭の家柄で、直幸自身も、こののち幕府の大老に就任しています。重就としては、幕府譜代の有力者に少しでも近づき、長州藩の行く末を安泰にしようと考えていたのでしょうか。

 

先例を重視するこの時代、一度婚姻を結ぶと、縁を重ね、つながりが深くなる傾向がありました。この婚約は残念ながら烈姫の早世により実現しませんでしたが、もし実現し、毛利家と井伊家が重縁の親類となっていたら。幕末の政局はどう動いていたのでしょう?