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第025回

2011.01.28

毛利家110128これはとてもカラフルな着物です。はぎれを集めて縫い合わせたようにも見えますが、実際には一枚の布を、はぎれのように織りなしたもので、見た目以上に、制作には手間がかかったと思われます。写真ではわかりにくいのですが、身丈はわずかに五十六センチしかありません。大人用の着物ではなく、乳児用のいわゆる「産衣(うぶぎ)」です。

 

これは、長州藩の初代藩主となった毛利秀就(ひでなり)の産衣とされています。秀就の産衣は三領残されていますが、この産衣が最も華やかで、桃山時代らしい雰囲気を今に伝えています。実は、この時代に限らず、産衣が残されるのは希なことです。それは、毛利元就など、功を挙げ、名を成した人物の所持品は、佳例・吉例として長く保存されることもありますが、成長するかすら分からない赤児の所持品は、それほど大切にされないのが通常だからです。

 

この産衣は、毛利家の初伝によれば、徳川家康からの贈り物だとされています。毛利秀就が生まれたのは、文禄四年(一五九五)十月のことでした。この年七月、輝元は叔父の小早川隆景とともに、豊臣秀吉から西国の仕置(しおき)を命じられています。同じく徳川家康が、東国の仕置を命じられていますが、これは、前関白豊臣秀次を切腹させたあと、政権の再編を目指した秀吉が行った措置とされ、後に五大老制へとつながるとされています。

 

関ヶ原の戦いでは、東西両軍を率いることになる家康と輝元ですが、豊臣政権の内部で重きをなすのはこの頃からと考えられています。そもそも疎遠な両者でしたが、この抜擢により互いを意識するようになったのでしょうか。輝元の第一子秀就の誕生を祝い、家康はこの産衣を贈ったと思われます。輝元にとっても、四十歳を過ぎて、ようやく生まれた秀就の行く末を考えると、家康という実力者の支援はありがたいことだったと思われます。本来残されるはずのない産衣が大切にされたのは、こうした政治的駆け引きゆえのことだったのかも知れません。