山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第024回

2011.01.21

毛利家110121これは「獅子舞(ししまい)」の絵です。獅子舞も、正月の風物詩として、かつてはよく見かけられたものでした。獅子舞とは、獅子の頭を戴いて激しく演舞する舞のことを指し、いろいろな時代・地方によって、さまざまなものが見られるようですが、その源流をたどると、中国から伝えられた伎楽や舞楽・散楽などを源とするようです。獅子はいうまでもなく百獣の王ライオンを神格化したもので、文殊菩薩の使者とも、悪霊調伏の神仏の化身とも考えられていたようです。仏教とともに伝来した当初は、寺院の法会を荘厳する演舞として演じられ、やがて平安時代以降、災厄退散を念じる祭礼で演じられるようになったと考えられています。

 

この絵の獅子舞は、その図柄から、正式には「伊勢太神楽(いせだいかぐら)」と呼ばれ、伊勢御師(いせのおし)によって演じられたものだそうです。御師とは、特定の寺社に属して、その教えを全国に広める伝道師のような役割を果たす存在ですが、江戸期には、幕府や諸大名など上級権力と結びついた伊勢神宮や熊野大社など大寺社の御師は、それぞれ持ち場が定められ、そこでのみ教えを広め、信者を獲得することが認められていました。戦乱が絶え、太平の世が当たり前となり、社会が享楽的となるにつれ、御師たちも難しい教理ではなく、本来布教の合間に演じる獅子舞や放下師の諸芸を、「太神楽」などと称して前面に押し出し、現在に見られるような大道芸としての性格を強めたようです。

 

これを描いたのは、大庭学僊(おおばがくせん)という、幕末から明治期の画壇で活躍した絵師です。長州藩時代の彼の事跡はまだよく分からないことが多く、この絵もなぜ毛利家に伝えられたかよく分かりません。ただ、伊勢太神楽をよく観察して、細大もらさず丁寧に書いていることは間違いないようです。彼がどこでこの風景を見つめていたのか、そしてなぜこの絵が毛利家に伝えられたのか? 謎は深まるばかりです。