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第021回

2010.12.24

毛利家101224これは、時の将軍足利義輝が、毛利元就に対し、錦直垂の着用を免許した文書です。

 

錦直垂は、鎧下に着用する鎧直垂のうち最も豪華なもので、なかでも赤地のものは、大将級の武将のみ着ることを許されていました。実際毛利博物館には、このとき元就が拝領したとされる紅地錦の直垂(重要文化財)も残されています。

 

 

したがってこれは、毛利家が、文字どおり大名として室町幕府から公認されたことを示し、毛利家にとっては末代まで伝えるべき栄誉の品でした。

 

これは、永禄三年(一五六〇)八月に出されています。この前年元就は、朝廷・幕府の求めに応じ、正親町天皇の即位費用として莫大な銀を献上しています。錦直垂の免許は、その褒美だと一般には解釈されています。確かにそのとおりですが、現実はそう単純ではありません。

 

当時の将軍足利義輝は、昔年の幕府の権威を取り戻そうと、各地の戦国大名に停戦と、幕府への忠節を示すための上洛を求めていました。毛利氏に対しても、山陰の尼子氏や九州の大友氏との和睦を命じていました。宿敵尼子氏との決戦を優先する元就としては、大友氏との和睦は、決して受け入れることのできない命令というわけではありませんでした。

 

しかし、博多をはじめ北部九州支配を目指し、対外交易権の奪取をもくろんでいた大友義鎮(宗麟)は、毛利氏が山陰に集中している間に、猛然と幕府に働きかけ、筑前・豊前守護職ならびに九州探題の役職まで獲得し、大内氏の後継者としての地位を確保するにいたりました。すなわち毛利氏の防長支配にすら揺さぶりをかけてきたのです。

 

元就が、朝廷・幕府への多額の献金に応じた背景には、こうした大友義鎮の攻勢に対する、金銭面からの反撃という面もあったのです。これに対し、大友・毛利双方を味方にしたい足利義輝は、毛利氏をひきとめるため、元就に錦直垂を免許し、毛利氏の家格上昇を認めたのです。