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第020回

2010.12.17

毛利家101217これは硯箱です。文字どおり硯などを収納する箱ですが、大名家の硯箱は、文具としてだけでなく、床の間の飾りにも用いられましたので、この写真のように、美しいものが多いのです。

 

この硯箱も、蓋の左下部に、黒々とした漆に金で筋を入れて流水を表しています。全体には金粉を散らして赤梨の肌のようにした梨地(なしじ)の技法を用い、さらにその上に、金を高く盛り上げる高蒔絵(たかまきえ)の技法で群生する枝菊を表した豪華なものです。

 

菊は古来より、不老長寿の瑞草として知られていました。日本の伝統工芸に菊の文様が多いのはそのためです。また、中国の菊水の伝説にちなみ、流水と菊とをともに描く菊水文様もよく描かれました。

 

このように、そもそもこの硯箱は、不老長寿や永遠不変を意味する絵が描かれた、とてもめでたい文具でした。しかし毛利家にとっては、それ以上の価値をもっているのです。

 

文久三年(一八六三)の八月十八日政変、翌年の禁門の変により長州藩は、幕府や薩摩藩・会津藩など、対立する公武合体派により京都を追放されました。その際、藩主毛利慶親(敬親)父子は、入京を差し止められ、官位および「松平」の名字、将軍より拝領の「慶」の一字も剥奪されました。その後、大政奉還により幕府が倒れると、慶応三年(一八六七)十二月八日に開かれた朝廷会議によって、毛利父子の入京が許可され、官位も復旧することになりました。そこで翌慶応四年二月十二日、藩主敬親にかわって五年ぶりに上洛した毛利定広(元徳)が、御所に参内し、拝領したのがこの硯箱なのです。

 

前藩主の急死により突如家を継いだ敬親は、毛利家の永続を至上の課題としていました。朝敵とされ、官位を奪われたことは、敬親にとって何よりの屈辱であったに違いありません。この硯箱は、敬親と毛利家にとって、そうした汚名を一掃した記念の品なのです。