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第017回

2010.11.26

毛利家101126これは乗馬の際に用いる馬具の一種、鞍と鐙(あぶみ)です。全体は、梨地(なしじ)とよばれる、金粉を散らして赤梨の皮のようにみせる蒔絵の技法で彩られ、豪華なことこの上ありません。しかもところどころには、高く盛られた金銀の高蒔絵(たかまきえ)で扇面を表現し、雲間を泳ぐ龍や、これから龍になろうとしている鯉、縁起のよい鶴などを描き出す、とても凝った意匠となっています。

 

たいそう立派な鞍鐙ですが、それもそのはず、これは、弘化三年(一八四六)、時の長州藩主毛利敬親が、幕府から拝領したものなのです。しかも、腰をおろす居木(いぎ)背面に、「慶長十七年 政元」と銘がありますので、作られたのは、江戸時代初期ということになります。由来は定かでありませんが、おそらく、桃山時代の豪華絢爛な逸品として長い間、幕府の蔵で大切にされてきた物なのでしょう。そう考えるなら、この豪華さも納得といったところです。

 

毛利敬親は、なぜこの鞍鐙を拝領したのでしょうか。詳しい経緯は、管見の限り定かではありませんが、添えられた漢詩文などによると、藩政良好を賞するためだったようです。

 

この七年後、アメリカのペリーが、軍艦四隻を率い、幕府に開国を要求します。いわゆる「黒船来航」です。この時幕府は、自らが外交を専決する二百年来の慣例を破り、外様諸藩を含む諸大名・幕臣らにも意見を徴しました。また、朝廷にも伺いを立てたことから、様々な勢力の意見が幕政を左右するようになり、やがて自らを含めた諸勢力の対立を収拾しきれず、幕府が崩壊することは、みなさんご周知のことと存じます。

 

幕府と有力外様大名毛利氏との蜜月を象徴する品として、維新後もなお毛利家は、この鞍鐙を大切に保存してきました。この鞍鐙は、毛利氏と幕府との蜜月から倒幕にいたる歴史をつぶさに眺めた生き証人なのです。この逸品から我々は何を読み取ることができるのでしょうか。