山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第012回

2010.10.22

毛利家101022慶安四年(一六五一)、正月の祝いも明けやらぬうちに、長州藩の初代藩主毛利秀就が急死しました。記録によると、年末頃から体調を崩し、一週間程度患ったのちの出来事でした。

 

後に残されたのは、僅か十六才の千代熊です。十六才の少年を、はたして幕府が防長二国の国主と認めるか、藩内では緊張が走ったようです。若年の当主ゆえ、幕府から統治能力を認められず、領地を削られたり、移動させられる例は、それまで多くありました。当時は、幕府・諸藩ともに体制の形成期であり、藩主には、相応の能力と経験が求められたのです。しかも長州藩は、関ヶ原の敗戦以降、財政再建や藩政をめぐってしばしば内部対立がみられました。また、一族の長府藩や徳山藩との間にも、幕府への負担や、家格をめぐる対立が発生していました。次期藩主の行く手には、難問が山積し、家督がすんなり認められるか、微妙だったのです。

 

長州藩首脳陣は、ありとあらゆる手を用いて、幕府に家督の無事継承を願い出たようです。その結果、まもなく千代熊に防長二国の相続が認められました。もちろんさまざまな条件は付けられました。なかでも特筆されるのは、後見人として出雲松江藩主松平直政らが選ばれたことです。彼は、千代熊の生母喜佐姫(龍昌院)の弟であり、結城秀康の子にして、徳川家康の孫でした。兄の忠直が改易された後もなお、将軍家の信頼を得、西国の抑えとされていました。

 

千代熊の家督承認が、比較的スムーズであったのは、喜佐姫の実家越前松平家の働きによるところが大きいとされます。おそらく喜佐姫自身も、兄弟たちに積極的に働きかけたことでしょう。やがて千代熊は、元服し綱広と改名します。長州藩の基本法とされる万治制法を定めるなど、綱広が、父秀就の遺業を継ぎ、長州藩の基礎を固めたことは周知のとおりです。このときの喜佐姫の働きがなければ、のちに長州藩が西国の雄藩として倒幕の主役となりえたか、そう考えるならば、このときの喜佐姫の働きは歴史的にも重要な一こまだったのです。