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第011回

2010.10.15

毛利家101015これは、毛利輝元所用とされる眼鏡です。縁は鼈甲。今とは異なり、耳にかける弦はありません。代わりに、左右上端に小さな穴が開けてあるので、紐を通して用いたようです。とはいえ、顔に固定するための鼻当がないので、顔にかけるのではなく、必要なときには手で持ってのぞき込み、使わないときには首からぶら下げるよう、紐が付けられていたと思われます。

 

現在日本に残る最古の眼鏡は、静岡県の久能山東照宮に納められた徳川家康所用のそれだといわれています。それに較べると、輝元所用の眼鏡は保存状態もよく、大きく、形も整っており、やや新しいようですが、特徴は同じで、家康のものに次ぐ古さのようです。

 

レンズは、中央が膨らんだ凸レンズです。老眼鏡として、輝元が晩年に使用したのでしょう。

 

関ヶ原合戦以後も長命を保った輝元は、老境に入ってもなお、三人の子どもや従兄弟の吉川広家・毛利秀元らに、しばしば長文の手紙を与えています。たとえば長男秀就には、藩主としての心得を何度も示しています。また一人娘が、吉川広家の嫡男広正に嫁ぐことが決まったときには、この縁組がいかに重要なものか、懇々と説いた教訓書を手渡しています。

 

彼女にとっては、吉川家は一家臣に過ぎず、この縁組をかなり不満に思っていたようです。しかし輝元は、分家吉川家の協力なしには、毛利家・長州藩の安泰はないと考え、この縁組を決めたのです。三代目の御曹司とはいえ、戦国の群雄と争い、若年より苦労を重ねた輝元と、大大名毛利家の姫君として、手厚く育てられた娘との意識の差が、見事に現れた一件でした。

 

晩年の輝元が、長い手紙を近親者にしたためたのは、若い世代が時代の波に飲み込まれることなく、毛利家を維持できるように、自らの経験をふまえ、変革期を生きる術を伝えるためでした。この眼鏡は、毛利家の永続を願い、老骨にむち打って子どもに手紙を書き続けた輝元の、晩年の切々たる姿を今に伝える貴重な逸品なのです。