山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第009回

2010.10.01

毛利家101001これは、毛利元就の長男隆元の夫人が、弟吉川元春に出した書状です。内容は、隆元に続き、元就も死去してしまったため、子息輝元の補佐を、元春と弟の小早川隆景に依頼したものです。

 

隆元夫人は、大内氏の重臣内藤興盛の娘ですが、大内義隆の養女として毛利家に嫁いできました。当時大内氏の下で、勢力を拡大しつつあった毛利氏を、大内陣営にしっかりと引き留めておくための、いわゆる政略結婚でした。

 

しかし周知のとおり、天文二十三年(一五五四)春、毛利氏は大内氏に決別し、厳島で陶晴賢を打ち破ります。そこで彼女の使命も終わったのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。彼女の実弟内藤隆春は、毛利氏の防長進攻に先立ち、いち早く毛利氏に味方し、毛利氏勝利の一因を作っています。毛利氏は、勝利の条件として、早くから隆春を味方に引き込もうとしていました。おそらく、隆元夫人も弟隆春の説得に大いに働いたものと思われます。その後も、彼女が毛利氏のため、一途に尽くしたことは、冒頭の手紙が示すとおりです。

 

現在毛利博物館に残されている彼女と隆元との書状をみると、彼女らは、遠く離れた戦場からも、しげしげと手紙をやりとりしていたことがわかります。その内容も、単なる戦況の報告だけでなく、長男輝元の養育や、戦地からの珍しい土産物に添えたものなど、家族としての慈愛に満ちたものでした。たしかに、彼女と隆元の結婚は、大内義隆が主導した政略的なものでした。しかし、やがて彼らの間には、夫婦としての愛情や、家族愛が芽生えたのでしょう。彼女が元就の死後、毛利家のために尽くした根底には、こうした家族愛があったと思われます。

 

戦国武将の婚姻は、たしかに政略的な見地から実施されるものです。しかし、毛利家の人々は、そこから心と心を強く結びつけることに腐心し、そして成功したのです。その人と人との強い結びつきこそが、戦国を生き抜く毛利氏の底力でした。