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第007回

2010.09.17

毛利家100917これは、毛利隆元の自画像とされているものです。着色される前の下絵で、顔の描線にはいくつか書き直した痕跡も見られます。

 

手慣れた筆致のこの絵が、本当に隆元自筆なのかは、意見が分かれるところです。ただ、文化面にも多くの業績を残した毛利家歴代の中でも、自画像を残したとされるのは、隆元ただ一人です。ではなぜ隆元は、毛利家歴代の中でも文化的に突出しているのでしょうか。

 

毛利隆元は、元就の長男として、父や弟とともに、毛利氏を戦国大名にのしあげた人物です。元就の時代、急速に力をつけた毛利氏は、西国最大の大名であった大内氏との関係を強化するため、隆元を人質として差し出しました。「人質」とはいえ、記録を見る限りでは、香積寺など寺社を巡ったり、宴席に招待されたり、湯田の温泉に入ったり、賓客としてもてなされた側面の方が強かったようです。大内氏にとっても、毛利氏は重要な協力者であり、隆元は、大内氏と毛利氏とを結ぶ、親善大使のような存在だったのです。

 

「西の京」として、繁栄を極める山口にひたった隆元は、すっかり「大内文化」に魅せられたようです。この自画像もその一つなのです。隆元は、これ以外にも、数枚の自筆画を残していますが、それらには雪舟流の筆法が見られるとされます。おそらくこの山口で、雪舟の流れをくむ絵師から手ほどきを受けたのでしょう。

 

さらに大内義隆は、重臣内藤興盛の息女を、自らの養女として隆元に娶らせました。大内氏と縁戚になった隆元は、ますます山口びいきになったようです。帰国後も山口に連絡し、儀礼など、様々な指示を仰いでいました。歴史に「もし」は禁物ですが、義隆が政権を保ち続けていたならば、隆元は、外様ながら重臣として大内氏の繁栄を支えたのかも知れません。

 

この絵は、実際には選択されなかった毛利氏の可能性を今に伝える、歴史の証人なのです。