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第005回

2010.09.03

毛利家100903引き続き古文書を徹底的にみていただきましょう。

 

今回は、花押だけで署名がありません。これだけだと誰の文書か分かりませんが、花押をよく見ると、前回の羽柴秀吉書状と同じです。そう、これは秀吉が毛利輝元に宛てた書状です。

 

前回の書状と較べると、いろいろ違いのあることに気づきます。「秀吉」の署名が無いことは、その一つです。そのほか、宛所の「毛利」の位置が、日付よりかなり下がったところに書かれています。よく見ると、それも、「毛利右馬頭殿」ではなく、「とのへ」と仮名書きにされています。そして、本文の最後に記す書止文言(かきどめもんごん)が、前回は「恐惶敬白」でしたが、今回は「候也」と、差し出す相手に対し敬意を示す部分が省略されています。

 

実は、これらの変化には一つの共通点があるのです。それは、前回の文書にくらべ、秀吉は毛利氏に対して敬意を払っていない、すなわち薄礼化しているのです。

 

この文書は、天正十三年(一五八五)の島津攻めに際し、毛利氏の総帥輝元自身が大軍を率いて九州に渡海したことを、秀吉がねぎらった書状です。ねぎらいの書状にもかかわらず、薄礼化しているとはどういうことでしょうか。

 

秀吉は、これより先の七月に、朝廷から関白に任じられていました。そして豊後の大友宗麟の救援要請に応える形で、薩摩の島津氏に対し、関白として停戦を命じていました。島津氏がそれに従わなかったため、毛利氏ら配下諸大名に九州への出陣を命じたのです。

 

秀吉は、関白就任を機に、毛利氏に対する手紙の書き方、いわゆる書札礼(しょさつれい)を、大名相互の対等な形式から、天下人が一大名に与えるそれに切り替えたのです。

 

古文書は、文字以外にも様々なところに情報が含まれているのです。ぜひこの機会に、毛利博物館にお運びいただき、実物のもつ多彩な情報に触れてはいかがでしょうか。