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第004回

2010.08.27

毛利家100827さて、前回の織田信長書状に続き署名をごらんください。そう、信長といえば秀吉でしょう。

 

この書状は、豊臣(羽柴)秀吉が毛利輝元に宛てたものです。内容は、信長が京都から追放した将軍足利義昭の帰洛を、輝元が信長に求めたところ、信長が応じたというものです。

 

比叡山焼き討ち、朝倉・浅井両氏の討滅などにより、畿内支配をほぼ確実にした信長は、天正元年(一五七三)将軍足利義昭を追放します。しかしその後も信長は、義昭に応じた上杉・武田・石山本願寺など信長包囲網に苦戦していました。そのため、毛利氏がこれに加わることを避け、包囲網そのものを崩すため、信長は便宜上義昭との和睦を表明したのでしょう。

 

書状の内容もさることながら、今回注目していただきたいのは、やはり秀吉の署判なのです。この写真を見ただけでは、何ということはない、ごく普通のありふれた秀吉の花押(かおう)です。ただこの書状は、一巻の巻物の内で、前回紹介した信長書状の隣に貼り付けられています。そこで、今回の企画展「教科書で見た!」では、この秀吉書状と信長書状とを、並べて見較べることができるように展示しています。

 

じっくりと二通の書状を、内容は気にせず、信長と秀吉の署判だけ見較べると、面白いことに気づくのです。秀吉の花押は、信長のそれに較べてやたらに大きいのです。当時秀吉は、京都の市政や、戦国大名毛利氏との外交も任された重臣の一人ではありました。その一方、秀吉の妻宛の書状中に、信長から「はげねずみ」と書かれたこともよく知られています。その信長よりはるかに大きな花押を、秀吉は用いているのです。秀吉は、特に自己顕示欲が強かったとされています。この花押を見る限りでは、それは早くから現れていたのでしょう。

 

実物資料は様々な情報を含んでいます。実物を見較べることでしか分からないことも多いのです。ぜひ毛利博物館にお越しいただき、実物の面白さを味わってください。